もう恋なんてしない

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もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対(もうこいなんてしないなんていわないよぜったい、英語:I never say "I never fall in love anymore"、ドイツ語:Ich sage niemals "Ich werde mich nie mehr verlieben")とは、哲学者であり高卒の天才ジャーナリストでもある槇原敬之氏が、1992年に発表した画期的な論文研究紀要で提唱した形而上学的概念である。

そのあまりにも難解な言語構造と、失恋からの回復期における心理的防衛機制を見事に言語化した功績により、「津波(TSUNAMI)」や「もったいない(MOTTAINAI)」等と同様、世界中でこの言葉は広く知られるようになった。

この言葉は1992年に提唱されて以来、我々に「言うとは何か」「しないとは何か」そして「絶対とはどこまでか」という、哲学の根本的な問いを投げかけ続けている。

熾烈なる論文界と槇原の登場[編集]

彼がこの論文を発表した1990年代初頭、日本の論文界は熾烈を極めていた。毎日のようにたくさんの論文家たちが「われこそは」としのぎを削っていた時代である。

主なライバル[編集]

  • 桑田佳祐:日本を代表する論文家。しかし、その研究テーマは「天皇制への異議」や「韓国への愛」など、一貫して極左イデオロギーに偏向していることで知られる。彼の論文は社会的ではあるが、個人の内面には寄り添わなかった。
  • 尾崎豊:10代の葛藤や行動原理について、自身も10代の頃から研究を続けた孤高の天才。奇しくも、槇原が当論文を出した1992年にこの世を去った。彼の論文は「盗んだバイクで走り出す」など過激な実地研究に基づいており、槇原の内省的なスタイルとは対極にあった。
  • 福山雅治:槇原と同世代のライバル。彼は、「君のこと忘れないよ」など、小学生でも思いつくような薄っぺらい論文しか書けないと言われている。その代わり、顔は非常によく、頻繁にテレビにも出演し、なぜか俳優としても活動していた。論文の質で勝てないため、顔面という別の土俵で勝負を仕掛けてきた厄介な存在である。

こんな混沌とした時代に、彗星のごとく現れたのが槇原敬之氏であった。彼は高卒でありながら、1991年に発表論文『どんなときも。』において、「どんなときも自分は自分である」という驚異的なトートロジーを提唱し、国内外で非常に高く評価されていた人物である。顔は正直なんとも言えないところではあったが、論文を書くことにおいて顔など一切関係ない(と福山以外の学者は思っている)。

概念の発表と社会への衝撃[編集]

1992年、槇原は自らが体験した「失恋」という事象をテーマに、新たな論文を発表した。それが「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」である。

このタイトルは、発表と同時に学会に衝撃を与えた。人々は混乱した。「するのか、しないのか」「言うのか、言わないのか」。肯定と否定が複雑に入り乱れ、日本語の文法が崩壊したのである。人々は必死にこの論文を解読しようと試みた。その結果、我々は2つの重大な哲学的問題に直面することになった。

この概念の特徴[編集]

なぜ「これからも絶対恋する!」ではないのか[編集]

この論文の核心は、「失恋からの回復」である。それならば、福山雅治のように単純な頭脳であれば、「オレは次の恋に行くぜ!」と前向きな言葉を選ぶはずである。

しかし、槇原は違った。彼はあえて、「もう恋なんてしない」という、失恋直後の人間が陥る一時的なニヒリズムを提示する。

そして、その直後に、

「なんて(=と、いう発言を)」
「言わないよ 絶対」

と、自らが今提示した虚無主義を、即座に否定してみせるのである。

これは何を意味するのか。哲学者の分析によれば、これは槇原の驚くべき誠実さの表れだという。

  • 「これからも絶対恋する!」:何の根拠もない、単なる希望的観測。福山が書くレベルの薄っぺらい論文である。次に恋ができるかなんて、誰にもわからない。
  • 「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」:これは「恋をする」という未来の行動を約束しているのではない。これは、「『恋をしない』と宣言すること」を「しない」という、現在の精神状態を宣言しているのである。

つまり、彼は「恋ができるかどうかは知らんが、少なくとも恋を諦めるというダサい発言だけは絶対にしないぞ」という、極めて消極的でありながら、同時に極めて強固な意志を表明している。 この遠回しな表現こそが、強がりと未練と希望の狭間で揺れ動く、人間の複雑な心理を正確に記述した、天才的な論文たる所以なのである。

「もう恋なんてしない」と言っているではないか[編集]

この概念が発表されて以来、言語学者を悩ませている最大のパラドックスがこれである。

もう恋なんてしない なんて言わないよ絶対」

彼は「言わない」と宣言した舌の根も乾かぬうちに、堂々と「もう恋なんてしない」と言ってしまっている。これは明らかな自己矛盾であり、論文の破綻ではないのか?この批判に対し、マキハラ哲学研究の第一人者は、以下の見解を示している。

「違う。君たちは読解力がなさすぎる」
「彼は、自分の言葉として『もう恋なんてしない』と言ったのではない」
「彼は、世間に蔓延する『もう恋なんてしない』という陳腐なフレーズを一度引用し、その引用したフレーズ全体に対して『(と、いう発言=)なんて』という助詞をつけ、それを『言わない』と否定しているのだ」

つまり、彼の発言の構造は

【(A)「もう恋なんてしない」】

という概念Aがあるとして、

【(A)なんて、言わないよ絶対】

という高次のメタ否定なのである。

彼は言ったのではない。引用したのだ。彼が言ったと主張する者は、論文を読み直すか、国語の授業からやり直すべきである。

このように、自分が「言わない」と宣言した言葉を、論文のタイトルで堂々と言ってしまうという離れ業。そしてそれを「引用だからノーカウント」という論理で強引に突破する力技。これこそが槇原の恐ろしさであり、彼が高卒の天才と呼ばれる理由である。

結論[編集]

槇原敬之氏が提唱したこの概念は、単なる概念ではない。それは、失恋という絶望の淵に立たされた人間が、いかにして論理をこねくり回し、自らの尊厳を守るかという、高等な哲学的格闘の記録である。

福山雅治が「君を守るために生まれてきた」という小学生レベルの自己暗示で満足している間に、槇原は「言わないと言った事を言うことの是非」という、遥かに高度な領域で戦っていたのだ。

我々はこの論文を読み上げる時、自分が哲学者と同じ問いに向き合っているという事実に、もっと襟を正すべきである。

関連項目[編集]

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