<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D</id>
		<title>山本常朝 - 変更履歴</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D&amp;action=history"/>
		<updated>2026-04-21T21:17:17Z</updated>
		<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D&amp;diff=139564&amp;oldid=prev</id>
		<title>Fromm: ページの作成：「'''山本 常朝'''（やまもと じょうちょう、万治2年6月11日（1659年7月30日） - 享保4年[[10月10日 (旧暦)|...」</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D&amp;diff=139564&amp;oldid=prev"/>
				<updated>2011-09-24T07:28:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ページの作成：「&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;山本 常朝&amp;#039;&amp;#039;&amp;#039;（やまもと じょうちょう、&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%87%E6%B2%BB&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;万治 (存在しないページ)&quot;&gt;万治&lt;/a&gt;2年&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=6%E6%9C%8811%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6)&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;6月11日 (旧暦) (存在しないページ)&quot;&gt;6月11日&lt;/a&gt;（&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=1659%E5%B9%B4&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;1659年 (存在しないページ)&quot;&gt;1659年&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;/wiki/7%E6%9C%8830%E6%97%A5&quot; title=&quot;7月30日&quot;&gt;7月30日&lt;/a&gt;） - &lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E4%BA%AB%E4%BF%9D&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;享保 (存在しないページ)&quot;&gt;享保&lt;/a&gt;4年[[10月10日 (旧暦)|...」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''山本 常朝'''（やまもと じょうちょう、[[万治]]2年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]（[[1659年]][[7月30日]]） - [[享保]]4年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]（[[1719年]][[11月21日]]）。'''じょうちょう'''とは42歳での[[出家]]以後の訓で、それ以前は'''つねとも'''と訓じた。）は、江戸時代の[[武士]]、『[[葉隠]]』の口述者。通称'''神右衛門'''、[[俳号]]は'''古丸'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
万治2年（1659年）に、[[佐賀城]]下片田江横小路（現在の[[佐賀市]]水ヶ江二丁目）で、[[佐賀藩]]士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書（茂富、重澄の大組頭）の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、[[鍋島光茂]]（佐賀藩二代藩主）の小僧として召し使われたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓（いわゆる[[児小姓]]・[[稚児]][[小姓]]）となり、名を市十郎と改める。[[延宝]]6年（[[1678年]]）20歳に[[元服]]して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、[[田代陣基]]が生まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間、私生活面では20歳年長の甥山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿[[鍋島綱茂|綱茂]]の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに[[仏法]]の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;血脈&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;(&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;けちみゃく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;)&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（師から弟子に[[法灯]]が受けつがれること）と&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;下炬念誦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;(&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あこねんじゅ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;)&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（生前葬儀の式、旭山常朝の[[法号]]を受けた）を申し請けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『葉隠』で[[慈悲]]心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、[[神道|神]]・[[儒学|儒]]・[[仏道|仏]]の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田（現在の佐賀県大和町）松梅村に閑居する[[石田一鼎]]を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天和 (日本)|天和]]2年（[[1682年]]）24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、[[江戸]]で書写物奉行、あと[[京都]]御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を[[襲名]]した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5年後の[[元禄]]9年（[[1696年]]）、また京都役を命ぜられ、[[和歌]]のたしなみ深い光茂の宿望であった[[三条西実教]]よりの[[古今伝授]]（[[古今和歌集]]解釈の秘伝を授かること）を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年（[[1700年]]）ようやくこれを受けることができ、[[隠居]]後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 隠居と晩年 ==&lt;br /&gt;
同年5月16日、光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により[[殉死]]もならず、願い出て出家、5月19日、高伝寺了意和尚より[[受戒]]、剃髮。そして、7月初旬佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村（現在の佐賀市金立町）黒土原の庵室朝陽軒に隠棲。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、[[宝永]]7年（[[1710年]]）3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで[[供養|追善供養]]し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、[[正徳 (日本)|正徳]]3年（[[1713年]]）黒土原から西方約11キロの大小隈（現在の佐賀市大和町礫石）の庵に移り住む。正徳4年（[[1714年]]）5月、川久保領主神代主膳（光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主[[鍋島宗茂]]）のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
享保元年（[[1716年]]）9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年（[[1719年]]）10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は[[八戸龍雲寺]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[辞世]]の歌：&lt;br /&gt;
:重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵&lt;br /&gt;
:虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 史料 ==&lt;br /&gt;
出家後の常朝は父重澄や祖父中野神右衛門清明のそれぞれの詳細な年譜を作製し、自分自身の詳しい年譜をも死の2週前まで書きつづけていた。なお、常朝自筆『年譜』は葉隠研究会『葉隠研究』第2号に翻刻されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 小池喜明『葉隠 &amp;lt;small&amp;gt;武士と「奉公」&amp;lt;/small&amp;gt;』（講談社学術文庫、1999年） ISBN 4-06-159386-2&lt;br /&gt;
: 序章 『葉隠』と山本常朝　&amp;lt;small&amp;gt;四 山本常朝の生涯と経歴&amp;lt;/small&amp;gt;　p59～p88&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D/ 山本常朝] - [[Yahoo!百科事典]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:やまもと しようちよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:肥前国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1659年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1719年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の保守思想家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Fromm</name></author>	</entry>

	</feed>