<?xml version="1.0"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xml:lang="ja">
		<id>http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96</id>
		<title>シャー・アーラム2世 - 変更履歴</title>
		<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?action=history&amp;feed=atom&amp;title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96"/>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96&amp;action=history"/>
		<updated>2026-04-04T05:13:53Z</updated>
		<subtitle>このウィキのこのページに関する変更履歴</subtitle>
		<generator>MediaWiki 1.25.1</generator>

	<entry>
		<id>http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96&amp;diff=140717&amp;oldid=prev</id>
		<title>初心者Ａ: ムガル帝国</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://99.83.207.156/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96&amp;diff=140717&amp;oldid=prev"/>
				<updated>2011-10-12T01:57:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ムガル帝国&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''シャー・アーラム2世'''（[[1728年]][[6月15日]] - [[1806年]][[11月10日]]）は、[[ムガル帝国]]の第15代[[皇帝]]（在位：[[1759年]][[12月25日]] - 1806年11月10日）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 即位まで ===&lt;br /&gt;
父は第14代皇帝のアーラムギール2世で長男。アーラムギール2世の息子の中では年長で、最も有能な皇子だったとされ、宗教や学問に精通し、[[アラビア語]]や[[ペルシア語]]、[[トルコ語]]なども自由に話せたという。父のアーラムギール2世が軍務長官の[[ガーズィー・ウッディーン]]によって擁立されると、父から[[皇太子]]に指名された。しかし宰相に昇格したガーズィー・ウッディーンはこの有能なシャー・アーラム2世が跡継ぎになることに反対し、[[デリー]]におけるシャー・アーラム2世の屋敷を包囲して殺害に及ぼうとした。しかしシャー・アーラム2世はこの暗殺事件を乗り切ってデリーから逃亡し、[[ビハール]]や[[ベンガル地方]]などの地で反宰相派と連絡を取り合いながら、機会をうかがった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1759年11月29日、父がガーズィー・ウッディーンによって[[暗殺]]されると、ビハールとベンガルの軍を率いて12月に皇帝即位を宣言する。ガーズィー・ウッディーンは対立したが、その8ヵ月後に始末された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 勢力拡大の失敗 ===&lt;br /&gt;
シャー・アーラム2世はムガル帝国の往時の勢いを取り戻すことに奔走し、積極的な対外進出を行なった。[[1761年]]から[[1764年]]にかけて何度も進出を行なう。しかし[[1761年]]の[[パーニーパットの戦い (1761年)|パーニーパットの戦い]]では[[アフマド・アブダーリー]]に大敗し、1764年の[[ブクサールの戦い]]でも大敗した。これらの大敗はムガル帝国の軍事力弱体化を決定的にし、イギリスがインド内における勢力拡大を容易にする一因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため[[1765年]][[8月16日]]には[[アラーハーバード条約]]を結ばざるを得なくなった。これは[[イギリス]]にビハールやベンガル、オリッサなどを割譲する代わりに、イギリスはシャー・アーラム2世に対して年間260万[[ルピー]]を与えるというもの、すなわち皇帝がイギリスの年金受給者になるというものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1768年]]、ムガル帝国の有力な重臣だった[[ナジーブ・ハーン]]が皇宮から追放されると皇宮は混乱し、皇太后からシャー・アーラム2世に対して援助を求めるようになる。シャー・アーラム2世はイギリスに助力を求めたが拒否されたため、[[マラータ]]と協定を結んで[[1772年]]1月までに混乱を抑えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 有力者の傀儡時代と無惨な晩年 ===&lt;br /&gt;
その後、[[イラン]]系貴族の[[ミールザー・ナジャフ・ハーン]]が国政を掌握した。彼は軍人政治家であり、イギリスなどの有能な士官を招聘して軍事制度の近代化を図った。彼の改革は成功し、[[シーク教]]徒や[[ロヒラ族]]など反ムガル帝国勢力を次々と駆逐して[[バンジャーブ]]から[[ジャイブル]]にまで及ぶ国土の回復を果たした。しかしミールザーが1782年に亡くなると、その有力な部下4名が権力者の地位をめぐって抗争する。シャー・アーラムはこの4人の抗争に対して[[マラータ族]]の[[マハジー・シンディア]]の援助を得て介入し、[[1784年]]までに平定した。しかしそのため、マハジーを摂政・軍務長官に任命せざるを得なくなる。しかし[[1787年]]、マハジーはラルソトの戦いでラージプート軍に大敗して権威を急速に失う。そしてロヒラ族の族長である[[グラム・カーディル]]が[[イスラム教]]徒と結託して（マハジーは[[ヒンドゥー教]]徒だった）、マハジーを失脚させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしてグラムが国政を握った。グラムは第12代皇帝の[[ムハンマド・シャー]]の妃である[[マリカ・イ・ザマーニー]]と親交があり、彼女と結託して皇族の[[ビダル・バフト]]を擁立しようとした。ビダルはシャー・アーラムより若年であり、またグラム自身に10年前にミールザー・ナジャフ・ハーンにロヒラ族の城砦を略奪されていたことからシャー・アーラムに報復しようと考えていたのである。グラムの行為は残忍で、首都のデリーに4000の兵士を配置し、[[宦官]]を殺戮し、女官を犯して拷問してシャーの周辺から側近を追い払った。シャーや皇子がこの行為に不満を述べると、彼は画家を呼び出し、「直ちに俺（グラム）の肖像を書け。短刀を持って、皇帝（シャー）の胸にのしかかり、奴の目を抉り出しているところをだ」と言うと、グラムはシャーと3人の皇子の目を潰してしまった。しかもグラムは従者に対して、「皇帝や皇子らに食事も水も運んではならない」と命令した。しかもグラムは自らの行為を正当化し、床に横たわっていたシャーの髭を掴み上げると、「わし（グラム）がこういう行為をするのも、お前が過ちを犯したからだ。命だけ助けているのは、神の思し召しだ。さもなければ、お前の手足を引きちぎってやるところだ」とまで言い放った。その後もグラムの残忍な行為は続き、皇子らの鼻をそぎ落とした直後、治療もしていないのに踊り歌うことを命令したり、何日も放置されて遂には死亡してしまった皇族を弔うことなくそのまま埋めるように命じたりした。また女官を部下のアフガン人に与えたり、財宝を独占したりした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、あまりに無惨な行為は部下の反発を招いてグラムは孤立する。このため[[1788年]]10月には深刻な食糧不足に陥り、グラムはデリーから退去せざるを得なくなった。その後に、マハジー・シンディアがデリーに入城して復権し、マハジーは皇帝の命令としてグラムとその一党の追討を行なった。グラムは5ヵ月後に殺害され、その眼球と鼻と耳がシャーのもとに送られたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリスの保護下に ===&lt;br /&gt;
[[1784年]]、イギリスでは[[インド法]]が成立し、インドは[[東インド会社]]の支配からイギリス政府の任命したインド総督による直接支配に移行する。[[1803年]]、イギリス軍の総司令官である[[ジェラルド・レイク]]はデリーで[[マラータ同盟]]軍（グラムの死後、ムガル帝国を支持していたインド諸侯の連合）を破り、シャーは以後、イギリスの保護下に置かれることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シャーは1806年11月10日、79歳でその生涯を閉じた。跡を子のアクバル・シャー2世が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
埋葬地は[[バフティアル・カーキ聖廟]]の近くにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* シャー・アーラム2世の時代にイギリスのインド支配が確立したといってもよい。だが、シャー・アーラム2世自身はそれをむしろ頼りにしていたという。&lt;br /&gt;
** 「貴族や家臣の裏切りによって、こうした混乱が起こり、誰もがそれぞれの土地で王として名乗りをあげて、互いに争っている。強者が弱者を支配し、欺瞞と策略に満ちたこの時代にあって、余がその務めや忠誠心を信頼できる者は、イギリスの長官以外は誰1人いない」（1768年にシャー・アーラム2世が東インド会社に宛てた書簡より）。&lt;br /&gt;
* [[1803年]]にインド支配権を事実上握ったジェラルド・レイクは年老いたシャー・アーラム2世に拝謁したとき、あまりの没落ぶりに涙を禁じえなかったという。&lt;br /&gt;
** 「偉大な[[アクバル]]や[[アウラングゼーブ]]の子孫が、年老い、盲目となって、権威を剥ぎ取られ、貧しい境遇に追いやられて、ぼろぼろになった小さな天蓋の下に座っている。この天蓋は皇帝の威儀のかけらであり、人間の誇りの形骸である」（ジェラルド・レイクの部下の記述より）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 宗室 ==&lt;br /&gt;
=== 父母 ===&lt;br /&gt;
*父：第14代皇帝[[アーラムギール2世]]&lt;br /&gt;
*母：[[ズィナト・マハル]]（Nawab Zinat Mahal Sahiba）&lt;br /&gt;
=== 后妃 ===&lt;br /&gt;
*Nawab Taj Mahal Begum Sahiba&lt;br /&gt;
*Qudsia Begum&lt;br /&gt;
他3名&lt;br /&gt;
=== 子女 ===&lt;br /&gt;
シャー・アーラム2世には50人以上の皇子女がいた。&lt;br /&gt;
* 第16代皇帝[[アクバル・シャー2世]]（母：第3妃Qudsia Begum）&lt;br /&gt;
* [[ジャワン・バフト]]&lt;br /&gt;
* [[スレイマーン・シュコー]]&lt;br /&gt;
* [[アフサン・バフト]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『ムガル帝国歴代誌』（[[創元社]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[http://en.wikipedia.org/wiki/Shah_Alam_II 英語版ウィキペディア：シャー・アーラム2世]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しやあらむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ムガル帝国の君主]]&lt;br /&gt;
[[Category:1728年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1806年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>初心者Ａ</name></author>	</entry>

	</feed>